第3章 一休と道長

 すっぽん料理は、彼の好物の一つだが、今夜は別れてきた陳公博のことが気になって、箸が自動的に動いているだけだった。
 さすがに陳は、帰国命令をうけても、悪びれたところは少しも見せなかった。お互にこれが最後であることは百も承知しながら、微笑を浮かべてお互の健康を祈りつつ再会を約して別れてきたことが、自分もひとかどの〝政治家〟らしく芝居をしたようで、あまり後味がよくなかった。
 知事やそのとりまきたちとの食事中、かれらの儀礼的な会話を、彼は黙然(もくねん)と聞き流していた。自分のしゃべったことは、何一つ頭に残っていなかった。揮毫(きごう)の依頼も、お追従(ついしょう)のように感じられて、あっさり断った。かつて自分が人気の絶頂にあった頃は、たった一人でいるときでも、何ものかに、十重二十重(とえはたえ)にとりかこまれているような気がした。ときに、蒸し風呂にでも入っているように息苦しく感じることもあれば、自分のからだが地球の引力からはなれて、成層圏を飛んでいるように思われることもあった。
 いま、その〝人気〟から解放された自分は、春が来て冬着をぬいだときの身軽さを感じる一方、冬の夜中に床を出て用を足したときに経験する。あの身のしまるようなきびしさとわびしさを覚えるのであった。
 今夜の知事たちの態度や眼の中にも、かつての自分に対するとは、ちがったものが感じられた。いや、そう感じる自分が悲しかった。

 御室の陽明文庫に帰ったのは、9時頃だった。明日の葬式の準備をしていた人々も、大方帰りつくしたと見えて、ただあちこちに、まだ電燈があかあかとついているだけで、あたりは静まり返っていた。家族や親戚の者もみんな寝ついていた。
 彼の寝所にも、床がのべられてあった。さっそくその中に入ったが、なかなか寝つかれなかった。
日本の政治家は、どんなに複雑な性格をそなえているように見えても、一人一人は単数である。だが、中国の政治家は、一人一人が複数である、と彼は考えた。
 別れぎわに、陳公博の顔に浮んだあの表情――あれは日本人には見られないものである。幾度か剣と弾丸と毒薬を秘めた食卓の上で、談笑しながら杯を交した経験を物語っている。それが〝政治家〟であり、〝革命家〟というものなのだ。
 陳が今夜、自分に話したところによると、終戦直後、蒋介石が日本軍の武装解除に北京へ乗り込んできたとき、当時の北支派遣軍司令官根本博中将を前において、
「こんどの戦争は、中国が勝ったのではない。日本が負けたのです。日華の和平、日華の提携は今からです。」
 といって、捕虜のつもりでいる根本に手をさしのべた。根本はひどく面くらって、思わず「負けた!」と、心の中で叫んだという。
 しかし、今日の中国は、蒋一人の力で動いているのではない。陳と蒋との間にどのような〝了解〟ができていようと、もっと大きな別の力がある。今日の帰国命令は明らかに陳に対する死の宣告である。
 それなら自分自身はどうか?
 かつての戦争指導者たちが、つぎつぎに巣鴨に収容されつつあるのに、自分はこうして絹夜具(きぬやぐ)の中に眠っている。自分も戦争指導者の一人、しかももっとも有力な指導者ではなかったか?
 確かに自分は国民の指導者であった。しかし戦争の指導者ではなかった。少なくとも戦争への指導者ではなかった。この戦争に対する責任は感じるが、断じて戦犯ではない!
 ――しかしこれは、自分の苦しい自己弁護にすぎないかも知れぬ。少しく観点を異にすれば、明らかに戦犯だ。いつなんどき自分も……
 そのとき、控えの間の襖の外あたりで、
「殿さま、殿さま!」
という女の声が聞えた。
 彼は寝たまま枕もとのスタンドにスイッチを入れて、
「誰だ?」といった。
「ツイでございます。おやすみのところ恐れ入ります。」
 塚本の妻女の声である。陳一行を見送って、その報告にきたらしい。
 すぐに起き上って、控えの間に出て行った。彼女の眼には、涙の跡がみえた。
「皆さま、ご無事に、嵯峨駅からお立ちになりました。殿さまにくれぐれもよろしくとおっしゃられました。奥さまだけ、少しおかげんが悪いので、おひとりでお残りになりました。」
「君たちには、ひどい迷惑をかけたな。迷惑ついでに、奥さんの方をもうしばらく頼むよ。で、義は?」
「米子の飛行場までお伴いたしました。オーバーも、やっと間に合いました。」
「ご苦労だったな。今夜はおそいから、ここへ泊って行ったがいいよ。」
 彼女は挨拶をして引きさがった。
 彼はふたたび床にはいったが、頭がますます冴えてきた。思いきって起き上り、寝巻の上に合オーバーを引っかけ、そっと雨戸をあけて外に出た。手には、今日の昼間、管理人からとりよせておいた書庫の鍵があった。
 いつのまにか、月が出ていた。少しかけてはいるが、明るかった。すすきの穂が、逆光をあびて光って見える。
 白亜の書庫は、一段と高いところに、月光の中で、すっきりと白く立っている。礎石に、
「紀元二千六百年 定礎」
と、刻みこんだ字も読みとれる。
 入口の鉄の扉には、桃を図案化した近衛家の定紋(じょうもん)が記されている。鍵をさしこんで開く鉄の手ざわりは冷たく、すでに京都の秋の深さを感じさせる。
 中に入って、スイッチを入れると、ぎっしりつまった古書、古文書の山が眼についた。
 この建物が出来上ったのは、昭和16年で、すでに資材の乏しくなっていた頃だが、耐震、耐火、防湿等の点で完璧を期したものだと、彼は幾度かきかされたものだ。
 四方の壁面は、当時航空機用材として大切だった桐の柾板(まさいた)で張りつめられている。数百年、或は千数百年を経てきた灰色の和紙がうず高くつまれた棚の隅に、金属製の湿度計が一つ、ぽつんと載っているのは、長い時の流れを感じさせる。
 2階は、参観者のために、代表的な史料が陳列されている。中央はガラス張りの陳列箱、壁には軸物がかかっている。
 あまり明かるすぎないように、配光には、特別に工夫されている。やわらかい白暮(はくぼ)に似た感触が、入室者の意識を艶消しにして、過去へのダイビングを、容易ならしめているように思われる。
 すべてが、灰色と古ぼけたニュアンスにただよっている中に、ただ一つ、真赤な原色をもって彼の眼を強く射るものがある。
 それは数年前に、彼自身の書いた大型の色紙である。


   元来有口曾不信  七八寸物吐又呑
   三世諸仏出身処  一切衆生迷此門

        一休禅師()  文麿書


 これが、赤い地の大きな色紙の左上に、得意の達筆で書かれていた。右下には、ただしゃれこうべだけが描かれ、「橋本関雪合壁戯作」と記されている。
 苦笑に似た微笑が、彼の口辺にただよった。なるほど自分もこの「ものいわぬ口」、この「門」に迷いつづけた「一切衆生」の一人である。ただ他の衆生が、真剣に、ときには死を賭してまで迷うたのに反し、ほんとに迷えないところに、「衆生」の一人になりきれないところに、自分の宿命的な悩みがある。
 23歳の自分が、まだお下げに結って女子学習院に通っていた18歳の千代子と、周囲の反対を押しきって結婚したのは、この宿命から脱出するための突破口をきりひらいたつもりだった。だが、その後の自分は、いつのまにか完全に、この宿命のとりこになっていた。それどころか、この宿命に甘えて、「門」から「門」へとさまよいつづけてきたのだ。
 諸仏や衆生と同じく、自分もこの「門」からこの世に出てきたものにはちがいないが、結局、自分にとってこの「門」は衆生の中に招じ入れるためではなく、宿命の中に閉じこめるために、開かれていたのだ。
 この色紙は、彼がもっとも華やかだった頃、土橋とかいった京都の骨董屋に書かせられたものである。それについて、先年彼が京都へきたとき、公式の歓迎会の席上で、知事か誰かが、こんなテーブル・スピーチをしたことを思い出した。


 ――かつて或る有名な骨董屋が、山県有朋公と竹内栖鳳(せいほう)画伯とのコンビで、色紙合作を思い立ち、まず栖鳳画伯を口説き落して、一筆描いてもらった上、それを山県公のところへもって行った。すると公は、栖鳳の絵をまるで下絵のようにあつかって、その上へ大きく(さん)を書いてのけた。その後、同じ骨董屋が、こんどはここにおられる近衛公と橋本関雪画伯との名コンビを思い立ち、まず関雪の方へ伺いを立てた。すると関雪は、山県公の故事を知ってか知らずでか「まず近衛さんに、讃を書いてもらってきなさい、そうすれば私は、何でもそれに合うものを描いてあげる」といった。こうしてできたのが、いま陽明文庫にある一休としゃれこうべの色紙です。
 ところが、これに対して、一部の人々は、「栖鳳画伯よりは、山県の方が一枚うわ手である。近衛公は関雪画伯にうまうまとしてやられた」といっているのです。
 しかし私は、この説は承認いたしかねます。自分の芸術も尊重してもらう代りに、他人の芸術はあくまで尊重する――この気持が、近衛公をして今日あらしめたのです。これからの日本を指導して行くのは、こういう文化性の豊かな近代的な政治家でなくちゃならんと思うものであります。
 申すまでもなく京都は、歴史と芸術と学問の都であり、また公とはもっとも縁故の深いところであります。今夕、非常時日本の最高指導者として、全国民の輿望(よぼう)をになっておられる公を迎えたことは、私共にとって最大の光栄であり、喜びであります。

 その後で起った大きな拍手の音が、今も耳に残っているような気がする。当時の自分も、この言葉の中にふくまれている追従に気がつかなかったわけではない。しかしその甘さを楽しんでいたことも争えない。
自分も、政治家としては、ときには他の〝芸術〟を大胆に無視しうる力、或る種の〝暴力〟が必要だった。自分の〝文化性〟は、より兇悪な〝暴力〟のカムフラージュとして、利用されたにすぎなかったのではないか。
 この書庫の中につまっている古文書も、見方によれば、その〝暴力〟の押切帳(おしきりちょう)にすぎない。それが千数百年にわたる〝暴力〟と〝暴力〟の争いの間を奇跡的に通りぬけてきて、今に残っているのだ。同じことが、自分の体内に流れている〝血〟についてもいえる。
 自分の〝血〟は、〝天孫〟瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、〝降臨〟したとき、これに従った〝神々〟の筆頭である天児屋根命(あまこやねのみこと)までさかのぼることができるというが、この古さは、たいして問題にはならない。出口のない擂鉢(すりばち)のようなこの小さな島で、幾種類かの種族が、うどん粉のようにねりあわされたのだから、お互いの〝血〟が網の目のように交錯しているのだ、ただこの〝血〟を百数十代前までもさかのぼることができるというのは、日本の皇室と共に世界的な記録だとはいえる。
 この長い〝血〟のリレーにおいて、バトンを現代にうけついだ自分が、迷信的な栄誉に包まれて、この民族の危険に際し、それを指導する使命を生まれながらに課せられているかの如き錯覚を起したのだ。それがそもそも過ちのもとだった。
 天孫民族というのは、南方から黒潮に乗って流れついたのが、より優秀な文化と体力と武器をもって、土着民を次第に征服して行ったのであろう。そういえば、ジャワのスカルノにしろ、フィリピンのラウレルにしろ、ビルマのバーモーにしろ、いずれも大きなたくましいからだの持主だった。直接ぶつかった自分の経験からいうと、かれらの個人の一人一人は、日本の政治家など到底太刀打ちができないような、幅と深みを具えていた。ボクシングでいえば、〝階級〟がちがうともいえるのだ。
 父も自分も息子たちもそうだが、近衛家のものは日本人よりずっと背が高いというのは、或はこんな形で、古い〝血〟が保存されているのかもしれない。
 しかし、問題は〝血〟そのものではなくて、その中に溶けこんでいる因習である。京都に残っている「御所」にしても、ヴェルサイユ宮殿や北京の紫禁城などを見たものの眼には、お話にならぬ小規模で、それはかつてのこの宮廷の勢力のほどを反映している。このささやかな宮廷を中心とする狭い垣の中で、ひと握りの貴族たちが、限られた地位をめぐって、血を血で洗う争いをつづける一方、〝家柄〟というものにしがみついて、檻の中の動物のような同族結婚を相互にくりかえしてきたのだ。
 いまここに、宮吏移動の下相談に関する後深草天皇の親翰(しんかん)が陳列されているが、それを見ても、当時の政府の規模のほどが知れる。
 9月13日夜といえば、旧暦では丁度今頃だったろう。そのときの顔合せの模様を記したものも出ている。
 しかし、この文庫所蔵の資料中、もっとも重要であり、世間にも一番よく知られているのは、藤原道長自筆の「御堂(みどう)関白記」である。道長といえば「この世をばわが世とぞ思ふ」という歌で有名な、藤原家最全盛期を代表する人物で、「源氏物語」の主人公光源氏のモデルだといわれている男だ。
 光源氏は、才華といい、容貌といい、一点の非のうちどころがなく、さまざまな女と関係を結んだ。正妻である葵の上のほかに、源の内侍(ないし)という美女、紫の上という少女、六条の御息所(みやすんどころ)という未亡人、空蝉(うつせみ)という人妻、まだその上に兄皇太子の眼をかすめては朧月夜の内侍の許に通い、父帝の目を盗んでは薄雲の女院と通じた。
 このドンファンぶりを現代の常識でかれこれいうのはまちがっている。この時代の男女関係は一種のスポーツであったのだ。今のホームラン・キングと同じように、当時彼は宮廷をめぐる小社会のヒーローであり、あこがれの的であったのであろう。
 だからといって、自分がこの時代に、道長の(ひそみ)みにならってよいということにはならない。この二つの時代には、社会通念の上に、大きなずれがある。ただ自分の中に流れている特別に保存された〝血〟が、その中に溶けこんでいる因習が、そのずれをともすればとびこえさせるのだ。
こんな風に考えてくると、なんだか自分というものが忌まわしくなってきた。かつて、大化の改新を指導した鎌足の志を現代にうけついで、翼賛運動に乗り出す決意をした自分が、白々しく思いかえされた。
 鎌足についで、近衛家中興の英傑といわれる家凞(いえひろ)が死んだのは、元文元年10月3日で、その二百年忌追善大法要を大徳寺で催したのは、丁度今から十年前の明後日、いやもう12時をすぎているから、明日だった。その後で、朝野の名士五百余名を招き、自分と住友吉左衛門が席主となって、この利久の遺跡において、大茶会を開いた。当時新聞はこれを空前絶後の盛儀と書き立てた。
 この書庫に収められている資料の大半は、家凞が整理し、蒐集し、補修し、保存の方法を講じたものである。家凞は、時の天皇の外戚として、久しぶりで宮廷のヘゲモニーを近衛家にもたらした男だ。何年か後には、鎌足や家凞に擬せられる自分を空想したこともあったのだが。……
 夜はもう大分更けたようだ。京都の冬を予告する空気の冷たさに、ひっかけていた合オーバーをまともに着なおした。
 眼をつむると、この十万巻の古文書のために、圧死してしまいそうな息苦しさを感じた。電燈を消して外に出た。
 月は中天にかかっている。その下に、愛宕、高雄の山々が、静かに眠っている。
 書庫の台地から降りる石段のところに、大きな松の枝が一本つき出ている。竣工式の日、ものを持っての登り降りに邪魔になるから、切ってしまおうという意見が出たとき、彼が、
「枝ぶりといい、場所といい、首くくりに丁度お誂えむきだから、残しておくがよい。」
と、冗談にまぎらしていったことが、いま思い出された。学習院時代、友人と共に粕谷村の徳富蘆花の家を訪れたことがある。そのとき蘆花は庭の老松を杖で示して、
「将来あれは『蘆花首くくりの松』になるかもしれんよ。」
と、笑いながらいった。この言葉が、あのとき彼の頭に浮んだのだ。
 いま、彼はその松の枝の下に立っている。傍へ寄ってみると、長身の彼のためには、枝の位置が少し低すぎる。しかし紐を短くすれば、死ねないことはあるまい。
 自分が、今夜死ねば、明日母の葬式は出せなくなるだろう。
 いっそのこと、二人一緒に葬ってくれと遺言して死ぬのも、一策ではある……
 だが、いざとなると、まだ〝死〟は彼の焦点にピッタリと合ってこなかった。

第2章 亡命者

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