明治から大正と年号が変わった年の秋である。
京都駅の降車口から吐き出された群れの中に、人よりは首だけ高い青年が混っていた。学生服を着て、信玄袋を肩にかついで、出町橋行の(路面)電車の方へ歩いて行った。
秋晴れの好天気だが、京都の町は諒闇色に包まれていた。明治大帝を生んだこの古い都は、今その死に逢って、新興の東京よりも真剣に、哀悼の意を表しているように見えた。
玩具のような小さな電車は、わずかな客を乗せて、人間が走るくらいの速さで、まっすぐに北へ走った。左側に長くつづいた御所の築地がきれると、すぐ終点である。
青年は、電車から降りて、鴨川の堤に立った。
如意ヶ嶽から比叡山にかけて、東山一帯の空に、薄い雲が細く長く浮かんでいる。その前の一段低い吉田山の麓に見える黒いらかの群れは、京都帝国大学である。
すぐ前に、河に沿ってこんもりと茂って見えるのは、糺の森で、その中から下賀茂神社の赤い大きな鳥居がのぞいている。そのほかは一面に畑で、大根や葱が青々としている。
出町橋から少し上がったところに、子供たちが大勢たかっているので、彼もその方へぶらぶらと歩いて行った。
近寄ってみると、金色燦然たる御所車が一台おいてあって、時平をはじめ、松王、梅王、桜丸などに扮した役者やスタッフたちがその辺の土堤の草の上で寝ころがっている。桜丸になっているのは女のようである。歌舞伎の「車曳」(菅原伝授手習鑑・車引)を活動写真に撮るところらしい。
三脚の上にのっている撮影機のファインダーをのぞこうとして近寄ってくる子供たちを、撮影隊スタッフたちが叱りつけている。
やがて川下の方から、人力車をつらねてやってくるのが見えた。寝ころがっていた連中は、急いで起き上がった。
先頭の車にのっていた男が、二、三間手前から呶鳴りつけた。
「お前たち、何ぐずぐずしてるんや!」
三十五、六歳で、見るからに精悍な顔をしている。
「大将、えらい遅いやおまへんか」
と、撮影技師らしい男がいった。
「東京から大事なお客があって遅れたんやが、お前たち、何してたんや、まだ牛もきてへんやないか」
「この辺の百姓家を回って歩いたんやけれど、どこも貸してくれよりまへんのや」
「お知世」と、つづいて車から降りてきた中年の女に、“大将”はいった。「お前はこのまま出町橋駅まで引き返して、車を引いて通る牛を一匹つかまえて来い!」
「あのえらそうな男、なんや、やっぱり役者やろか」
と、見物の一人がつぶやいた。
「ちがうわ。あれ、マキノ省三ちゆうて、活動をつくる親方や。牛をつれに行ったのはお内儀さんや」
と、どこかの御用聞きらしい若者が説明した。
「ほんなら、夫婦でやってるんやな」
見物がどっと笑った。
「さあ、仕事や、仕事や……」マキノは手拭で鉢巻をしながらいった。「まごまごしてたら、機械が回らんうちに、日がくれる」
それから彼は、ふところから台本らしい紙束をとり出して、演技の要領を説明した。
間もなく、マキノ夫人が牛を引いた百姓をつれて戻ってきた。大きな牡牛だが、年をとっていると見えて、頸のあたりの皺が深く、毛がほとんどすりきれていた。
「これ、肥料車を曳いとったんや、御所車には、ちょっと、もったいないと思ったんやけど」
マキノ夫人がいうと、一同はまたどっと笑った。
それはいいが、さっそく御所車にその牛をつなぐ段になって、尻のあたり一面に、牛自身のうんこがくっついていることがわかり、近くの百姓家から桶を借りてきて、牛の尻を洗うので一騒ぎだった。
やっと、それがすむと、牛がまた新しいうんこをたれたために、その場所を移動しなければならなくなった。
信玄袋を土堤において、この騒ぎを見ていた青年は、やがてその見物の群れをはなれて、ひとりで河原の方へ降りて行った。うららかな陽光を浴びて、水面はキラキラと光ってみえた。少し下手の方に干してある友禅の真赤な模様が、まぶしいくらいに彼の眼を射た。
信玄袋を枕にして、白い石ころの上に、彼はごろりと仰むけに寝そべった。土堤の上の通行人が、平土間(舞台正面の低い枡席)から花道を見るように見えた。その中には、明らかに恋人同士か、新婚夫婦らしいものも幾組かあった。
彼は、眼を瞑って、この数カ月間の自分の行動をかえりみた。それは“叛逆”〟という一つの言葉で要約しうるものであった。
“叛逆”という人間の気持は、たいていの場合、根源にさかのぼってみると、最初は極めて単純なものである。だが、それがひとたび心の一隅に巣くい始めると、次第に他の領域を侵略して、ついには、精神活動のヘゲモニー(主導権)を握らずにはおかないというのが、そのいちじるしい特徴である。いわばそれは心の中のフラクション(分派)であり、非合法運動である。
しかもそれは、決して単純な形では現われて来ない。ちょうどプリズムを透った光線のように、途中で幾度か屈折し、いろいろの異った色をおびて外に出てくるものである。
五摂家の筆頭近衛家の嫡子としてこの世に生をうけた文麿の幼い心に、“叛逆”の最初の種を蒔いたのは、不用意な乳母の一言であった。それによって彼は、これまで自分のほんとの母とのみ思いこんでいたのが、実は叔母であることを知った。実母は彼を生むとすぐ亡くなって後釜にその妹が迎えられて、秀麿以下の弟妹を生んだ。したがって、彼だけが継子になるわけだ。
彼の性格のどこかに、一抹の暗い影がさしはじめたのは、それから後である。人の意見はよくきくが、身内や親友に対してもめったに自分の腹を割らない、裸になって人にぶつかって行くということを知らない、彼の人となりの原型が、かくして出来上がって行ったのである。幼い頃の彼は、ひよわく、ひねくれていた。それに鶏を見ると怖くて逃げ出すというような病的なところもあった。
彼の心に与えた第二の大きな打撃は、父篤麿の死であった。篤麿は、西園寺公望と共に、「長袖(ながそでの着物=公卿と僧侶)界の双璧」と呼ばれた。かつて維新の元勲たちの間で後継者のことが話題にのぼったときも、三条(実美)公が岩倉(具視)公に、「ご心配召さるな、後には近衛と西園寺がひかえている」といったくらいだ。二人の中でも、西園寺の方は、実際政治に対して、どっちかというと消極的、傍観的であったのに反し、篤麿の態度は終始積極的で、日本のみならず東洋諸民族の運命というものをいつも頭において、行動していた。それが明治三十七年一月元旦、東亜の風雲いよいよ急をつげ、日頃の経綸(国家を治めととのえること)を行なわんとするに当たって、当時(東京帝国)大学にいたベルツ博士も匙をなげるという奇病にかかって亡くなった。
篤麿の存命中、連日押すな押すなの来客で賑わっていた近衛家は、たちまち火が消えたように淋しくなった。後に残されたものは、借金ばかりだった。恩顧をうけた人々も、手のひらをかえすように金を返せといい出した。現金で返せぬので、掛軸などをかたに出すと、何度でもつきかえしてくるという始末だった。
それでなくてさえ暗い影をもった十四歳の少年の心に、人の世の冷たさが、どんなに強く感じられたことであろう。人と交わって、心からうちとけることも笑うことも知らない、憂鬱な、孤独を楽しむ青年へと、彼は成長して行った。
彼の反抗的な批判の眼は、まず身近なところに、伝統と因習の殻の中で、特権の惰眠をむさぼっている貴族社会に向けられた。それを彼は極度に軽蔑し、何とかして自分は、この社会から脱出したいと思った。それには、まず第一に、平民の社会にも通用する実力を身につける必要がある。
その頃学習院から出した名簿には華族出身でないものの上には、◎印がついていた。彼はつとめてこの◎印と交わった。学校の成績や教師間の評判などは無視し、好きな本を勝手に読んでひそかに実力を養った。
スポーツは、野球でも水泳でも何でもやったが、特にランニングが得意だった。当時マラソンといわず、「長距離競走」といったが、それに彼はいつも出場して、たいてい三着以内に入った。府中の大国魂神社から新宿まで甲州街道を走ったときなど、先頭がゴール近くまで来てぶっ倒れた。それを見た彼は、自分も倒れそうになったが、死ぬ思いで我慢して、ついに二着でゴールインした。このレースの秘訣は、どんなに苦しくても、歩いたり休んだりしないことで、一度ペースを落としたら、もうおしまいである。これによって彼は大いに負けじ魂を培った。
その頃また、クロス・カントリー・レースというものが流行したが、これにも彼はしばしば優勝した。この競技は、出発点に集合した選手が、その場で初めて教えられた目的地に向かって、磁石だけを頼りに、畑でも森でもつっきって、各自の選んだコースを進むのである。いくら近道しても、川にでもぶつかったら、橋のあるところまで迂回しなければならぬ。このレースに必要なのは、何よりもカンであるが、そのカンにかけては、自分でも神秘に近いと思うくらい彼には自信があった。
しかしこういうことは、彼の周囲の同族社会には喜ばれなかった。後見役と称する人々は、彼が車夫馬丁のするようなことに熱中して、学業をおろそかにするのはよくないといって非難した。
だが、程なく彼の実力をはっきり実証するときがきた。学習院の中等科を了えた華族の御曹子たちは、そのまま無試験で高等科に進んだが、彼は敢然として一高を受けた。そして全国から集まった選りぬきの秀才たちに伍して、この“狭き門”を見事に突破した。
初めて経験するこの新しい世界も、華族社会とはちがった臭味のあることがわかって、それが鼻についてきた。かれらはいわば知的貴族――というよりも、そう思いこんでいる人間の集まりで、その秀才意識や、社会に出ても特等席が予約されているという優越感は、華族のそれに相通ずるものがあった。そしてかれらの生活を支配している立身出世主義に対しては、初めからそれを否定し、棄権することによって人生のスタートをきった彼は、強い反撥を感じた。
したがって、交友の相手も、将来官途について栄達を望んでいるものよりは、そんなことを眼中においていない作家や学者志望者に重きをおくようになった。同じクラスには山本有三、山宮允、豊島与志雄、三井光弥等、一級下には菊池寛、久米正雄、芥川龍之介、松岡譲、土屋文明、佐野文夫、恒藤恭、成瀬正一等がいたし、別なクラスには藤森成吉、秦豊吉、渋沢秀雄、細川嘉六、矢内原忠雄、舞出長五郎等がいた。一高でもこの時代は、特に文化的な傾向の強い時期で、後年日本文化の各分野で目覚ましい活躍をした人々が巣立った。彼もこの雰囲気から大きな影響をうけたことはいうまでもない。
教壇からかれらにもっとも影響を与えたのは、漱石の「三四郎」に出てくる広田先生のモデルといわれる岩元(禎)先生で、「さながらギリシャの哲学者がこの世に生まれてきたような」人であった。彼はプラトーを理想とする独身主義者で、「世の中で一番俗悪のものは政治家、一番高尚なものは哲学者」だと思いこんでいた。後年近衛が政治に志しながら、後まで“政治家”嫌いであった遠因はここにあるのである。
この先生の感化で、彼も初めは哲学者たらんと志したのであるが、やがて彼の眼は現実社会の生きた問題に向けられて行った。学校、学友、教師といったような狭い影響圏内から脱却しはじめた彼の前に、激動期の“時代”が新しい教師として登場してきたのである。
欧州ではバルカンの風雲急をつげる一方、ラッサールによって組織されたドイツ社会民主党はビスマルクの弾圧にも屈せず、躍進また躍進をつづけた。中国では、革命軍による各地の暴動は着々成功し、明治四十五年二月、宣統帝は退位して、ついに清朝は亡びた。日本では、明治四十四年正月、幸徳秋水等十二名の処刑が行われたが、その十月には片山潜等の社会党が組織され、翌年七月には鈴木文治によって日本労働総同盟の前身「友愛会」が創立されている。日露戦争の勝利がもたらした好況も底をついて、経済恐慌はいよいよ深刻化し、米価の暴騰に伴って、大衆の生活はますます窮乏の度を加えて行った。
こうした時代の動きは、心の一隅になんらかの不満を蔵した青年の叛逆心を誘発し、それに点火せずにはおかなかった。それが青年のヒロイズムとロマンチシズムとを刺戟し、自らその特権的環境を放棄して、“民衆の中へ”とびこんで行くものも、続々出てきた。
若い文麿の心もこの時代の嵐に、はげしくゆすぶられた。オイケン、ベルグソン、ニイチェ、スチルナーを漁り、イプセン、ストリンドベリーに馴染み、トルストーイ、ツルゲーネフに親しんだ彼は、それらのすべてを実験的に抱擁した高等学校生活を了え、大学とその専攻科目を選ぶ段になってハタと岐路に立って迷わざるをえなかった。
彼の前には、二つの道があった。一つは学者もしくは文筆家として個人的に生きるための学問の道であり、もう一つは、政治家または社会運動家として、民衆にはたらきかけるのに必要な学問の道である。彼にはどっちかというと、前者の方が望ましいけれど、哲学者として書斎に閉じこもるか、それとも作家として立つかということになると、それは希望よりも天賦の問題であるだけに、自信がもてなかった。また後者を選ぶにしても、政治家として現実を支配する勢力の上に乗っかるか、あるいはそれを否定し、破壊する革新勢力の側につくか、これも容易に決することのできない問題であった。
こういうことになると、彼には相談相手がなかった。いや、それはいくらでもあるが、かれらのところへもって行けば、返答はわかりきっている。法律や政治を学んで亡父の志を継げ、というにきまっている。公爵の当主には、どんな馬鹿にでも、貴族院のフリー・パスがついている。自分の周囲を見わたしても、同年輩の華族の子弟たちには、怖ろしいようなのは一人もいない。かれらの間に伍して、将来貴族院をきりまわすくらいのことは、造作はないと思う。だが、そんなことをして何の意義があるというのか。同じ現実世界の中に生きるなら自分のからだから因習をふるい落し、いっそ民衆の側に立って思う存分働いてみたい。
一時彼はその決意を固めかかったが、いざとなると、やはりためらわざるをえなかった。自分が“公爵”をかなぐりすてて“民衆の中へ”とびこんで行けば、なるほど民衆は大いに喜んで拍手して迎えてくれるであろう。新聞は写真入りで大きく書き立てるであろう。だが、民衆が自分を歓迎するのも、民衆の力がまだ弱くて、自分を必要とする間だけに限られているのだ。民衆がもっと成長し、独立の勢力となる(それもそんなに遠いことではあるまい)ときがくれば、自分のようなものは、無用であるばかりか、むしろ邪魔になるのではなかろうか。百何十代にもわたって、民衆から隔てられていた“血”の垣は、そう易々と取り除かれるものではあるまい。とどのつまりは、旧い勢力からも民衆からも見すてられたみじめな自分が、目の前に見えるような気がする。
そこで、決心がつかぬままに、とりあえず、周囲の反対を押しきって、東大文学部哲学科に籍をおくことにした。だが、井上哲次郎教授その他の講義をきいてみて、それが岩元先生の話をきいて頭に描いていた「哲学」とは、およそ似ても似つかぬものであることを知った。古臭い生命のない哲学の乾物――それもすでに黴のはえたようなものであった。
失望した彼は、社会学の教室をのぞいてみた。当時は「社会」と名のつくものは何でも危険視されていた時代で、それだけに「社会学」というものには、一種の魅力があり、スリルがあった。ところがその主任教授である建部遯吾の講義に出て、驚くよりはむしろあきれた。彼は黒板に、自分がこれまでに獲得した肩書を書きつらねてその価値を説明し、最後に同じ博士号でもほかの人は「もらった」のだが、自分は「とった」のだと大見栄をきって、その講義を結んだ。
この空疎な、田舎代議士の大風呂敷のような“講義”をきいて、彼は東大文学部なるものにすっかり愛想をつかし、見きりをつけた。
家へ帰って、ひとりで考えた末、京都大学に転学する腹をきめた。当時京都大学には、河上肇、河田嗣郎、戸田海市、米田庄太郎、佐々木惣一といったような少壮気鋭の進歩的な学者がそろっていた。哲学の方にも、岩元先生が「日本における唯一の哲人」として推奨している西田幾多郎がいた。
それにまた、この機会に東京がもっている権力主義的な空気からも、家庭的な煩わしさからも、一度脱出して、ひとりで自由にものを考えてみたかった。京都大学の入学願書〆切日はとっくにすぎているが、直接ぶつかって行けば何とかなるだろうと思った。
だが、すぐそれを決行するには、さしずめまとまった金がいる。さっそく手に入る見込みもない。金のことで人に相談に行くのも嫌だ。そこで、神田の古本屋を家へ呼んで、亡父の蔵書をほとんど払い下げてしまった。それは法律、政治、外交、歴史に関するものが多かった。空になった書棚を見ると、亡父にすまないような気もするが自分についている古い垢を洗い落したようで、さっぱりした気持になった。長い間彼の心の中でくすぶっていた“叛逆”が、ここで一段落をつげたようにも思われた。
それから、夜具その他身の回り品を荷造りして、一足先に京都大学に入った友人の下宿先に発送し、自分は信玄袋一つ下げて、ぶらりと京都にやってきたのである。
夜汽車の疲れで、いつのまにか寝込んでしまったらしい。目がさめてみると、陽はもう大分西に傾いていた。今日はまだ昼飯を食っていないことに気がついた。
起ち上ると、目まいがして、倒れそうになった。仁丹を口にふくんだら、少し元気が出た。
土堤の方を見ると、撮影隊も見物人もいなくなっていた。
とにかく白川まで行けば、木戸、原田、石渡その他学習院からの仲間が、あの辺には大勢たむろしているというから、誰かいるだろう。
人力車をつかまえるために、出町橋までくると、同志社の女学部の生徒らしい女が三、四人つれだって帰ってくるのに出合った。海老茶の袴が眼にしみるように映った。
そのとき彼は、非常に大切な忘れものに気がついたときのように、ハッと足をとどめた。毛利千代子のことを思いだしたのである。彼女も今頃市ヶ谷駅の方へ歩いているかもしれない、あるいはもう電車に乗っているかもしれない。
……
何としても、周囲がいかに反対しようと、どんな障碍があろうと、彼女は獲得しなければならない。この“たたかい”に敗けるようなら、学問も思想もあったものではない。自分は環境の奴隷になるわけで、二度と起ち上がれないであろう。
車上の人になってからも、彼はただこのことのみを考えつづけた。そして大学の正門前を通りこしても、それに気がつかなかった。