第4章 跳躍台

 葬式の日は、前夜の睡眠不足も手伝って、くたくたに疲れた。
 彼は喪主としての挨拶を了えると、逃げるように、陽明文庫に帰ってきて、夕飯もそこそこに床をのべさせた。そして翌日の正午前、陳一行を米子まで見送ってきた塚本に起されるまでは、死んだように眠っていた。
 塚本の報告によると、米子の飛行場には、中国政府の大型飛行機がついていた。陳一行を引きとったあちらの将校たちは、この革命の先輩たちに対して、極めて鄭重(ていちょう)であった。陳がいうには、危いところで近衛に会うことができたから、もはや何もいいのこすことはない。ただ近衛や塚本に厄介になりっぱなしで出発するのは心残りである。どうかくれぐれもよろしく伝えてほしいとのことだった。
 この忠実な秘書は、帰って行った。
 千代子夫人や次男の通隆は、今夜東京へ立つことになっているが、彼はまだ一両日京都にとどまることにした。
 朝食を兼ねたおそい昼飯をおえると、彼は着流しのまま、ぶらりと外に出た。
 たった一人で、徒歩で、京都の街を歩くことは、何十年振りかである。ここの大学を卒業して以来のことだろう。
 戦災を免れたというばかりでなく、京都そのものの保守的な性格から、どこを見ても昔とちっとも変わっていない。紅殻(べんがら)ぬりの格子、瓦をのせた築地(ついじ)や板塀、屋根つきの門、狭い庭、同じような庭樹――すべていくつかの型にはめてつくったようなのが、どこへ行っても並んでいる。これらの中には、彼が新婚当時住んでいたのとそっくりなのもある。
 そうした家々の軒先に、張板(はりいた)伸子(しんし)ばりの干物が、午後の陽をいっぱいに浴びているのも、戦災を知らぬ街の幸福を物語っている。
 白いあごひげをたらし、尺八の入った黒い袋を肩からさげて、焦茶の鼻緒の下駄をはいた老人や、剃りたての青い頭に黒の衣、裾の方に白い下着をのぞかせ、昔からある(とう)手提げ袋(てさげぶくろ)をさげた尼さんなどを通りで見かけるのも、京都らしい。
 或る駄菓子屋の店先に、「祝出征、祈武運長久」と染めぬいた人絹(じんけん)ののぼりが、二つにきって日除けに使われていた。
 それをみて彼は、京都にはまだ近衛家譜代の家来が三十世帯ばかりもあり、戦争中それらの子弟が出征するごとに、自筆の「祝出征」の国旗に添えて、「金壱万匹(いちまんびき)」(25円)を贈ったりしたことを思い出した。
 目的もなくぶらぶら歩いていると、大きな石屋の前に出た。少しの空地もなく石碑や、石燈籠や、庭石の上に、半ば枯れたかぼちゃの蔓が這っていた。その傍に肥料車がとまっていて、それにつながれた牛が硬い地面に、番茶のような小便をたらしていた。
 よく見れば、大徳寺の裏門前であった。門の中には、石畳が長くつづいていた。彼の足は、自動的にその方に向った。
 境内には、末寺が二十軒ばかりあるが、近衛家の菩提寺である芳寿院は、その中の一番奥にあった。戸を開けると、広い、しめっぽい内庭に、昨日葬式に使った供花などが、乱雑においてあった。
 案内を乞うと、白い前かけをかけた住職夫人が出てきた。彼の顔をみると驚いたように引っこんで、代りに石臼みたいな、四角な顔をした背の低い住職が現われた。
 近衛は、昨日の葬式のお礼をいって、墓所へ案内してほしいといった。和尚はまあ上ってお茶でもと、たってすすめるので、応接間に通った。
 応接間の襖に、一尺四方もある大きな字で「いろは」が書いてあるが、これは今日昨日も、三十年前も同じである。奥の間の薄暗い床に、「護国禅窟 文麿」と書いた掛軸がかかっているのが、ほのかに見える。
 広い縁側で、3、4歳の男の子が、三輪車を走らせている。縁側の隅に、2斗も入りそうな土瓶の化物がおいてある。
 庭には、厚い絨毯のような杉苔が一面に生えていて、陽がさんさんと照りつける飛石の上にとかげが顔を出している。睡蓮の咲いている池には、かわせみに似た鳥が飛んでいる。遠くに見える半分枯れた松の大木には白い雲が二つ三つひっかかって、そのあたりを鳶が一羽ゆらゆらと旋回している。
 住職を促して近衛家代々の墓所の門の扉を開かせた。同じ型の石塔が両側に二十ばかり行儀よく並んでいる。母の骨を埋めたところには、新しい墓標が建っている。
「これじゃ、もう満員で、僕の入るところはなさそうだな。」
 彼は半ば独り言のようにいった。そういいながら、前にも一度、ここへきて、これと同じことをいったような気がした。
「いや、あのときも、たしかに、この和尚の前で、そういった筈だ。あのときの自分は、今よりももっと真剣に死ぬことを考えていたのだ。」と、彼は心の中で叫んだ。
 それは、日米間の衝突を何とかして回避しようとする彼の必死の努力も、失敗に終りそうになったときであった。その頃はもう天皇に対して、一首相以上の親しい関係にあった彼は、秘かに天皇にだけ心中をうちあけて、その内諾をえた上、アメリカへわたり、ルーズベルト大統領に直接交渉して、独断でもって、アメリカ側の条件をうけいれ、不戦条約をとり結んで来ようと決意したのだ。もちろん、それが成功しても、しなくても、彼の命のないことだけは確実であった。
 いよいよこれを断行する決意を固めた時、彼は祖先に訣別するために、秘かに、わざわざここへやってきたのだった。
 だが、それも結局決意だけに終った。ついに開戦となって、もはや自分の力ではどうすることもできない方向に、国家の運命は向けられてしまった。
 これと同じようなことが、もう一度あった。これは、今も記憶に新しいこの7月12日のことだった。これまた天皇と長時間にわたる密談の末、表むきはソ連との善隣関係強化ということで、彼が特使としてモスクワに飛び、直接スターリンにぶつかって、戦争終結の斡旋を依頼するという放れわざを演じようとしたのだった。
 そのときはあまりにも急で、墓詣りどころではなかった。同行者6名の人選も終り、すぐ立てるように待機していたところ、突如、スターリンがポツダム会議に出向いたというニュースが入って、中止となった。もちろん出発していたならば、ことの成否にかかわらず、彼の命のなかったことは、前の場合と変わりがない。
 しかし、二度とも、彼は真剣に死を決意し、覚悟したことは、天地神明に誓ってもよい。ところが、そのとき彼の頭の中にあった〝死〟は、虹のように美しいものであった。これは三十年にわたる政治生活のフィナーレとして、その間のすべての失敗や過失をつぐなってあまりあるような気がした。
 原子爆弾や、ソ連の参戦によって、終戦、いや敗戦が現実化してくると共に、〝死〟は外から、テロの形をとって彼の身辺にせまってきた。こんどは大きな恐怖を伴った。彼はただもうむしょうに、動物的に、命が惜しくなった。猟師に追われた野獣のようで、われながら浅ましいと思うくらいであった。その危機を脱すると、つぎは、祖国をここにいたらしめた最大の責任者として、〝死〟が至上命令の形で、彼の前に現われた。
 これは戦犯として外からくるものではなく、責任を知るものとして内から出たものである、いや、そうあらねばならぬ。いずれにしても、結果においては同じであるが、それははっきり区別すべきだ、と彼は考えた。
 いまはただ、彼の前には、〝死〟の時期と方法が残されているだけだ。
「僕のはいる場所は、どこがいいかな、和尚さん?」
 和尚は、無頓着なのか、それとも彼の心を見すかしてか、無頓着を装っているのか。
「まだつめれば、一人や二人は大丈夫だがね。」
と、和尚は相変らず無頓着に答えた。
「しかし、窮屈なら、この境の土手をとりはらえば、ずうっと広くなるよ。」


  京に来て菩提心もつ子となりぬ
  鐘の音にも涙こぼるる


 こんな歌が、ふと、空飛ぶ鳥の影のように、彼の心をかすめた。
 墓所を出た彼は、境内を流れている清らかな小川に沿って、歩いて行った。
 突然、電車の停っている停留所に出たので、行先もきかずに、それに乗った。電車に乗るのも、久しぶりで、珍らしかった。
 電車は板塀と板塀の間や、樹木と樹木の間を走った。
 終点につくと、嵐山行きの郊外電車の出るところだった。またそれに乗った。
 嵐山も、昔とあまり変わっていなかった。ただジープの群や、進駐軍男女の姿が、この古い景勝に新しい国際性を加えていた。このあたりは、学生の頃、いくどもきたことのあるところである。そういう清らかな山水の眺めは、東京に育ったものには珍らしかった。
 今も、あのがっしりした原田熊雄と、背が低くて頭でっかちの木戸幸一の間にはさまって、ひょろ長い自分が一緒に歩いているような気がする。祇園から可愛いい舞妓を何人もつれて遊びにきたことも、思い出された。


  五六人舞姫づれのゆくころは
  月となりたる嵯峨のかへり路


 歌人吉井勇は、伯爵家の御曹子で、かれらには学習院の先輩でもあったが、京の遊里においても、かれらの師匠であった。したがって彼の歌は、たいていそらんじていていつでも口をついて出た。
 嵐山は、西を山にさえぎられているので、暮れるのは早い。濃い碧の淵は、黒さが加わると共に、深みと凄みを増してきた。
 彼は、流れに沿って、杜鵑亭(ほととぎすてい)の方へ歩いて行ったが、途中から引きかえして、渡月橋の畔に出た。橋を渡ってくるジープは、すでにヘッド・ライトをつけている。
 橋に近い舗装道路の中程近くに、大きな松の老樹が一本だけ、伐らずに残されている。交通整理の上からいうと、取除きたいところだが、〝古い〟が故に、〝風致〟を添えるというので残されたのであろう。
 これが、この舗装道路の中の老樹が、彼および彼の周囲の存在を象徴しているように思われた。どのみち、伐られるか枯死するほかはないのだと、自分にいいきかせながら、彼の足は、川に沿って下流の方に向った。
 二、三丁行くと、右側に(つた)におおわれた長い築地がつづいた。その中程に瀟洒な門があって、その内側に朱塗りの雪洞(ぼんぼり)が一つ立っていた。戦前につくられたものらしく、かなり古びていたがそれに「霞山(かざん)荘」という字を見出して、彼は、思わず足をとめた。彼の頭に、三十年前に親しんだ一人の美しい舞妓のあどけない顔が、忽然として浮んできた。
 彼女に始めてあったのは東大から京大へ転学してきた彼の歓迎会が、学習院の同級生達によって祇園の「万亭(まんてい)」(一力)で開かれた時だった。その頃彼女はまだ半玉(はんぎょく)だったが、まもなく一本になった。「浅香」といった。
 最初から彼女は、彼が好きになったらしく、彼のいるお座敷は、特別に嬉しそうだった。まもなくそれが、彼女の仲間や彼の友人たちの間で評判になった。二人で出くわすと、周囲は、わっとはやし立てた、ドイツ語の「モルゲン」(朝)というのが彼女の符牒のようになった。
 彼女は、小柄で、丸顔で、色の白い、涼しい眼をもった女だった。彼も嫌いではなかった。しかしその頃の彼は純情だった。それに一方では、千代子夫人との恋愛が発展しつつあった。
 彼はまもなく千代子夫人と結婚した。自然彼の足は、遊里から遠のいて行った。
 やがて、彼女の方も、祇園から姿を消してしまった。大阪の薬種問屋の次男とかに身うけされたという話を後に彼は友人たちからきいた。


  一力のおあさに聴きしはなしよな
  身につまさるる恋がたりよな


 勇のこの歌は、少し時代がちがうようだから、彼女のことではなかろうが、後に原田がこの歌をみつけてきて千代子夫人のいる前で、さも曰くありそうに歌ってきかせて、彼を困らせたりしたこともあった。
 それっきりで、彼は彼女のことをすっかり忘れていた。ところが数年前、祇園の宴席で当時のことをよく知っているという老妓の口から、浅香が旦那と別れて、嵐山で料亭を開いていること、その料亭には、なんでも近衛家にちなんだ名(老妓はそれを思い出せなかったが)をつけているところをみると、まだ彼を忘れかねているらしいという噂をきいた。いま、彼はそれを思い出したのである。「霞山」というのは、いうまでもなく彼の亡父の雅号だ。
 彼は、しばらくためらっていたが、思いきって門に手をかけた。門を入ると、すぐ幅一間ほどの流れがあり、その上にかかっている橋をわたって玄関に行くようになっていた。声をかけると、銘仙の矢絣(やがすり)をきた少女が出てきた。名前をきいてすぐひっこんだ。
 現われたのは、五十歳前後のでっぷり肥ったお内儀型の女である。玄関に灯はついているが、電力が落ちているとみえて、ほの暗い。
 二人は、一瞬、無言で相対した。ややあって女は、
「まあ……」
 といったまま、つぎの言葉が出て来なかった。
 座敷に通されて、挨拶をかわした。その頃から彼女は急に雄弁になった。
「ほんまに、まあ、お久しうございます。この婆さんをよくまあ、忘れんで、わざわざ訪ねてきておくれやしたな。」
 彼はずっと無言だった。かつての〝恋人〟が、ありふれた〝お内儀〟に還元して行く姿を、じっと冷やかに眺めていた。
 座敷は、川に面しているというよりも周囲水にかこまれて、庭までついている大きな屋形船にでも乗っているようだった。遙か上流の黒い山の下に、渡月橋が芝居の書割のようにほのかに見えた。
 女は、小娘のようにはしゃいで、「あれから後」の身の上話をはじめた。
 見うけされた男と、数年同棲した後、別れて大阪の南地からまた芸者に出た。それから工場主の二号におさまって、それが長くつづいた。その間、工場は、どんどん大きくなった。その頃売物に出たこの料亭を買って、女の名前で営業していたが、戦時中は、その工場の寮ということで、主として軍人や役人の接待用に使われていた。ところが終戦前に、工場主が爆撃で死んで、遺族との間にいざこざはあったが、結局、これだけが女のものとして残った。終戦後はごく少数の古い知り合いだけ に限って、裏口営業をしているが、維持するだけがやっとであるという。
 彼は、この話をうわの空でききながら、女の顔をじっとみていた。彼の頭の中に残っている女とは、あまりにもちがいすぎた。
 この太った五十女が、かつての「浅香」であるとは信じられない。色だけは相変わらず白いが昔は気のつかなかったそばかすが、際だって浮いてみえた。
 少女が、手をついて、風呂が沸いたと知らせた。
 浴槽は、近頃つくりかえたとみえて、まだ木の香も新しかった。いつか軽井沢の万平ホテルで、芥川龍之介にひょっこり出あって、一緒に入湯したが、そのとき有島武郎の死から自殺について語りあった事を思い出した。
 芥川の意見は、自殺そのものは反対ではないが、跳躍台(スプリングボード)に女を使うのは殺人の一種である。したがって、複合自殺(ダブルシューイサイド)というのは、実際はごく稀なことで、たいていの情死は半殺人(セミマーダー)と断定していいというのである。
 当時それほど真剣に、死について考えていなかった彼は、あまりはっきりした意見をもっていなかった。
「しかし、自分の気にいった女をオブラートにして毒薬をのむのは、そのままのむよりは、たしかに舌ざわりはいいな。」
 ベランダで、籐椅子によって、黄昏れて行く京都を見ながら、コーヒーをすすっているとき、近衛はひとりごとのように呟いた。
「霞山荘」と「浅香」とが、一つになって、頭に入ってきた刹那、彼も無意識のうちに、この「跳躍台」というものを思いついたにちがいない。
 湯から出ると、すでに食卓の用意ができていた。
 女は、結城お召と黒縮緬の羽織に着換えて出てきた。その羽織の紋をちらと見て驚いた。これは、あの陽明文庫の鉄の扉の中央にあったのと同じものであった。
「気がおつきやしたか。」
 と女は得意そうにいった。
「この羽織は大事にしまっといて、滅多に着まへんのどっせ。たまにこれをきてお座敷に出ても、あまりよそさまにないご紋やさかい誰も気がつきやはりまへんのや」
 それから女は、帯の間から、女持ちの小さな扇子をとり出した。手にとって開いてみると、金泥(こんでい)の上に、


  舞姫がありのすさびの縁むすび
  仇ともならば悲しからまし


「覚えておいでやすか? 一力のあの一番奥のお座敷で、お殿様と、二人きりでした。置炬燵(おきごたつ)の上でお花をひいて遊んだとき、いついつまでも忘れないという指きりをしましたやろ、その後で書いて頂いたのが、これどすがな」
 ――そういえば、そんなことが、あったような気もする。その頃たしか十七歳だった女が、この蕩児の詠草を彼の心の声としてうけとったとしても、それほど不自然ではない。
 もしも、彼がこの五十女を抱いて、今すぐいっしょに死んでくれないかといったら、女はどんな顔をするであろう、何と答えるであろう。いま、ここで死ぬ死なぬは別問題にして、ためすだけでもためしてみたい、という残忍な興味に、彼は駆り立てられた。
 しかし、女は、案外素直に、いっしょに死ぬというかもしれない。「お殿さまと心中」するということに、この種の女にありがちな誇りと満足を見出さないとも限らない。芥川の説にしたがえば、これも〝半殺人〟かもしれないが、この取引は、すでに人生の大半を使い果した女にとって、そんなに不利とは思わないだろう。女は死に臨んでも虚栄と打算は忘れないものだ。

 その後、まもなく彼は、電話で車を呼んで、陽明文庫に帰った。彼の外出中に、東京からすぐ帰れという電話や電報がつづけさまにきて、八方手をまわして探していたのだった。
 彼はその晩の夜行で東京に立った。

第3章 一休と道長

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