第2章 青春賛歌

今は立派な住宅街になっている洛北白川も、昔は「秋風ぞ吹く白河の関」(福島県)とごっちゃにした大宮人もあったほど、片田舎に思われていた。大正の初め頃でも、見わたす限り田圃つづきで所々、昔ながらの藁葺家の間に、新築の瓦屋根がぽつぽつ見える程度であった。

原田熊雄が二階を借りている家も、その一つで、牧場だときいていたから、ポプラの木に囲まれたそれらしい広場が遠くからすぐ眼についた。

大文字で有名な如意ヶ嶽の北、月待山の麓、竹藪を背負った銀閣寺のすぐ近くである。「蒲団きて寝たる姿や東山」のあちこちにちりばめられた紅葉が、夕陽に映えて鹿ヶ谷一帯の民家からは、夕餉(ゆうげ)の煙がまっすぐに立ちのぼっている。

黒谷か真如堂か、どこか近くの寺で打ち出す鐘の音が、東山と吉田山の間にこだまして、のどかな余韻を耳に運んでくる。

牧場には、丸太の柵がめぐらされ、その中で大きな乳牛が三、四頭寝そべっていた。その中の一頭のピンク色をした乳房に赤黒い夕陽がスポット・ライトのようにあたり、その辺を生き残りの蠅が二、三匹飛び回っている。

彼の車が停まると、二階の手すりのところにたむろした数人の仲間が、早くも見つけて、ドヤドヤとやってきた。

「ちょうどいいところへきた。みんな集まっているのだ」

と、いつも世話人格の原田がいった。

「今日は、乃木(学習)院長の命日でね」

小さな木戸幸一が、長方形の顔を横合から出していった。

その晩、この牛乳屋の二階六畳二室をぶっ通して開かれた集まりは、明治大帝の後を追って自刃(じじん)した乃木(希典)将軍の追悼会であると共に、彼の歓迎会ともなった。

かれらの中には、近衛や石渡荘太郎のように一高を経てきたものもあるが、学習院高等科から直接きたものが大部分であった。

後に専修大学総長になった道家斉一郞、その後をついだ小泉嘉幸、大審院判事になった上田操、実業界に出た加太安邦のような非華族組も混っていた。

いずれも、窮屈な制服をぬぎ、厳重な監視下にあった寮生活から解放されて、急に大人になったような気がして、各自好き勝手な生活を楽しんでいるのであった。

スキ焼鍋をつつきながらの話題は、当然乃木夫妻殉死の可否論となった。一、二の穏やかな肯定論も出たが、大勢(たいせい)は否定論に傾いた。

剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)もいいが、(日露戦争での)旅順の生き残りの、兵隊上がりの准士官みたいのを寮監につれてきて、お蔭で僕たちの青春を台なしにされたからな」

と、原田がいった。

「就任早々新しい学則をきめて、それに、『源朝臣希典(みなもとのあそんまれすけ)謹書』と署名した掲示が出たね」

「そのうちに『腕時計は学生に不必要なり。講義中に時計を見るは失礼なり』ときたよ」

「でも、『眼ばたき一つは一つの隙』なんてのは、なかなかしゃれてるじゃないか」

「中等科の三年頃だったかな。大将が院長になって間もない頃だよ」と木戸が、大きな眼をギロリと光らしていった。「目白駅の出口で乃木さんに会ったので、お辞儀をしたんだ。それから僕は学校の方へ先にどんどん歩いて行ったんだが、門の近くで友人と会って立話をしたため、おくれたところへ乃木さんがやってきて、またぶつかった。すると爺さん、僕の顔を見て『なぜ敬礼しないか』というんだ。『さっきしましたよ』というと、もう一度しろというんだ。それから僕はあの爺さんが嫌になったよ」

「この頭でっかちを一度見たら、忘れられん筈だがな」

と、後に京都府知事になった赤松小寅がまぜっかえした。

「僕も一高に入ってから、目白駅でよく乃木に出あったもんだよ」と近衛が口を挟んだ。

「僕の和服姿を見て、『一高には制服がないのか』というんだ。しかし僕は、何度注意されても制服をきないので匙をなげたのか、しまいには何もいわなくなった」

正帽の通風孔の位置と数までちゃんと規定している学習院の制度にも困ったが、破れた帽子に足駄(高下駄)、腰に手拭をぶらさげて、冬は吊鐘マントという一高の“正装”に対しても、近衛は強い反撥を感じ、ほとんど紺がすりの和服で通した。制服そのものよりも、制服的なものの考え方や生活態度が嫌でたまらないのであった。

「形は精神をつくるというけれど、あの形式主義には弱ったね」と、加太がいった。

「寮の机の位置が悪く、暗くて本が読めないので、もっと明るいところへ移すと、勝手に位置をかえちゃいかんというからな」

「これは最近の情報だが……」と織田信恒がいった。「僕たちが天井裏に匿しといたビールの空壜が近頃見つかったそうだよ。今の寮生がとっちめられたようだが、レッテル(ラベル)で古いもんだとわかったらしい。あれを見つけてびっくりしている爺さんの顔が見たかったね」

「しかし、剣道は熱心だったね」

と、小泉がいった。

「自分の頭を打たせるのが好きだったよ」と、道家が後をうけた。「それに、とても打ち易くてあの長い頭に打ちこむのはいい気持だったよ」

かくて若き日の宴は、夜の更けるのも知らずに、つづけられた。

「この辺で、お開きとするかな」と原田はいった。「酒も肉もなくなったし、それに近衛君は汽車で疲れてるだろう」

「君、今夜の宿はどうなってるんだ」

と、木戸が近衛にいった。

「なんなら、僕の家へ泊ってもいいよ。すぐ近所だから」

と、すでに一家をかまえている織田がいった。

「有難う、宿は丸太町の方に手紙でとってあるから」

と、近衛は答えた。

「じゃ、(よし)坊……」と、原田は、食事の後かたづけの手伝いに上がってきた少年に向かっていった。

「この信玄袋をもって、近衛の殿さまを送ってくれ。大学あたりまで行けば、人力(車)が見つかるかも知れん」
 

吉田山の麓に沿った道を、近衛は少年と共に歩いた。月の光に照らし出された少年は、背が高く、足が早く、動作がキビキビしていた。原田が二階を借りている牛乳屋の次男坊で、鶴井義照といい、中学の一年生だという。

吉田山を越え、三高の塀に沿って、熊野神社の方へ下って行った。ほとんど人に会わなかった。

「僕は家を借りたいと思うんだが……」と、近衛はいった。「小さいのでいいから、一つ見つけてくれないかな」

「どの辺にいたしましょうか」

「そうだな。田中か下賀茂あたりがいいね。それから、君の両親に話して、飯たきの婆さんを一人見つけてくれよ」

そういう彼の瞼に、毛利千代子の顔が、彼女のパッチリ開いた澄んだ眼が、はっきりと浮かんできた。

近衛が毛利千代子に初めて会ったのは、省線(のち国鉄→JR)電車の中だった。

彼は初め、目白から巣鴨まで省線で行き、そこから円太郎(東京市営)バスで(本郷の)一高に通学していたが、後に新宿回りを選んで、お茶の水まで省線を利用していた。一高を卒業する日も近づいてきたある朝、信濃町駅から乗りこんできた美しい少女に、強くひきつけられた。それからは毎朝彼女の姿を見ることが楽しみになった。その頃はまだボギー車(輌)が一台きり(の編成)で、しかも、相当の間(隔)をおいて通っていたので、彼女と同じ車に乗り合わせることはそう困難ではなかった。

彼女が華族女学校の生徒であることも、毛利高範子爵の令嬢であることもすぐわかった。毛利子爵は、当時の華冑(かちゅう)界(華族の社会)での変わり種で、どこか哲人的な風格をおび、官途や政界での栄達を望まず、毛利式速記術なるものを創案して、子供たちにも教えこんでいるというので評判だった。彼の人柄や家風が、娘の服装にもよく現われて、他の華族の令嬢に見られるような派手なところはちっともなかった。特に彼女の知的に輝いた印象的な容貌は、人々の注目をひいて、華族女学校の花とうたわれていた。

彼は久しく思い悩んだあげく、周囲にそれを打ち明けた。真先に反対したのは継母の貞子だった。毛利といっても、高範子爵の家は、いわば名もなき末藩で、家柄がちがいすぎるというのである。一高に入学した文麿は、秀才の誉れ高く、周囲の期待は大きかった。この家柄とこの才能をもってすれば、どんなに高(貴)くて有力な家との縁組も可能であった。それどころか、やんごとなき姫君の御降嫁(こうか)だって、望めなくもなかった。彼の周囲が、この貧乏子爵の娘を(めと)ることを、こぞって反対したのも、当然であるといえよう。

だが、周囲の反対が強ければ強いほど、彼はこれにうちかつことに生き甲斐を感じた。ついに、懇意な先輩を介して、毛利家にかけあった。だが、同家の方でも、あまり乗り気ではなかった。理由はやはり「身分がちがいすぎる」というのである。しかし彼は決して断念しなかった。結局、彼女はまだ若すぎるというので、この縁談は今保留の形になっているのである。

「最悪の場合は、非常手段に訴えても……」と彼は考えた。「それには、東京よりも京都の方がよい。やはり京都にきてよかった。いずれにしても、家を見つけることが先決問題だ」

足の早い二人は、いつの間にか、丸太町の宿の前まできていた。表はしまっていたが、すぐに部屋へ通された。

「義坊、君の名は確かそうだったね。遠いところわざわざご苦労だった」

といって近衛は、金をいくらか紙に包んで握らせようとしたが、どうしてもうけとらなかった。

「それよりも殿さま……」と少年はモジモジしながらいった。「殿さまのお家へ、僕を書生においてくれはりませんか。何でもやりまっせ。僕、殿さまが好きやさかい」

「よかろう。僕は賛成だ」

と近衛は、きっぱりといった。初めて会った瞬間から、何となくこの少年が気に入ったからである。

少年が大喜びで帰って行くと、近衛は床に入ったが、なかなか寝つかれなかった。

「自分だけひとり躍起になっていても、彼女は自分をどう思っているだろうか。これまでの経過からいって、自分に好意をもっていることは明らかだが。万一の場合は、一切をすてて自分のふところへとびこんでくる勇気があるだろうか」

こう考えると不安の影が段々大きくなってきた。

「いずれにしても、彼女はまだ子供にすぎない」 

これが彼の下した断案(結論)であり、気休めでもあった。
 

翌くる朝おそく、昼食をすませると、近衛は、京都大学に出かけて行った。

まず教務課の受付へ行って、法科へ転入学志望を伝えたが、入学願書締切日がとっくにすぎているからといって、てんで受けつけない。何といって頼んでも駄目だ。

そこで彼は、やむなく、東京を立つときもらってきた山川健次郎男爵から京大総長宛の添書を懐中からとり出して、渡した。受付はびっくりしたような顔して、彼の方を見たが、すぐ奥へ引込んだ。

やがて、教務主任というのが出てきて、鞠躬如(きっきゅうじょ)(身を屈めて慎みかしこまるさま、へつらう様子)として、彼を貴賓室に通した。そしていった。

「ただ今総長は、会議中でお目にかかれませんが、お申し出に添うよう、できるだけのご便宜は計りますから、ご安心願いたいと申しておられます」

彼は内心、勝ち誇ったような気持で、あっけにとられている受付の前を通りすぎて外へ出てふりかえると、正面のいわゆる「自由の時計」が二時を示していた。

これで、転学問題は解決したものの、特権を否定している筈の自分が、やはり特権におんぶして、無理を通したのだと思うと後味がよくなかった。ざま見ろ! といわれているのは、むしろ自分のような気がした。

彼の足は、救いを求める人の如く、かねてから憧れていた河上肇の家の方に向かった。河上肇は、明治三十八年、「千山万水楼主人」の名で、「社会主義評論」を読売新聞に連載、一躍有名になったが、まもなく妻女を郷里に帰して、伊藤證信の「無我苑」にとびこみ、大日堂に(こも)った。それから読売新聞記者になり、月給をそのまま「無我苑」に投げ出し、自他無差別の生活を志したりした。四十二年、京大に迎えられて助教授となったのである。

三高の東通りにある河上の家は、すぐに見つかった。案内を乞うと、上品な、しとやかな夫人が出てきて、すぐ書斎に通された。質素だが、落ちついた室だった。

主人は、火鉢の前で、本を読んでいた。痩型で背が高く、頬骨と前歯の出ているのが眼に立った。挨拶をしても、しずかにうなずくだけで、自分の方からあまりものをいわなかった。

近衛は、手持ち無沙汰で、ちょっと困ったが、しばらくすると、どちらからともなく、氷がとけるように、うちとけて行った。近衛が、社会問題に興味をもっていること、主としてそのために京大へ転学してきたことをのべ、研究方針や参考書などについて指導を求めた。

主人は、それに一々親切に答えた。そしてちょうど机の上にあった洋書を二冊差出した。

「差上げますから、よかったら、もってかえってお読みなさい。どちらもいい本です」

一つはスパルゴーの「カール・マルクスの生涯と著作」、もう一つはイタリーのトリノ大学のロリア教授の「現代の社会問題」であった。

「特にロリア教授の本は、とても面白くて僕は徹夜して一気に読みましたよ」

と、主人はいった。

そこへ夫人がお茶をもって現われて、来客のあることをつげた。

「滝君か。そりゃちょうどいい。すぐここへ通しなさい」

夫人と入れ代りに、元気のいい、聡明そうな青年、というよりもすでに一人前の紳士に近い男が入ってきた。

「ご紹介しよう。こちらは滝正雄君といって、ここの大学院にいる人で、僕の唯一の親友です」

瀧はさっそく名刺を出したが、近衛にはなかった。

「いや、名刺など頂かなくても結構ですよ」

と、滝は如才なくいった。

三人になると、座が急に活気づいた。

一時間ばかり経って、近衛が帰り仕度を始めると、滝も一緒にお暇しようといった。

するとまた夫人が現われて、いった。

「まあ、およろしいじゃございませんか、すぐ温かい紅茶がはいりますから」

紅茶が出ると、滝は近衛の宿をきいた。丸太町だというと、ここから一町ばかり下ったところに車屋があるから、なんなら、そこまで案内しようといった。

「僕は人力車に乗るのが嫌でね」と主人は独り語のようにいった。「人間を奴隷あつかいにしてるようで、どうも不愉快ですよ」

「そうですね」

と、滝は相槌を打った。

「でも、車夫はそれで食べるんだから、乗ってやれば喜びますよ」

と、夫人がいうと、一同は朗らかに笑った。

河上家を辞して、外へ出ると、滝は、自分も聖護院まで行く用事があるといった。一緒に歩きながら、ここの大学の先生たちの評判などを滝の口からきいた。

この辺に多いしずかなしもたやの狭い庭に、木槿(むくげ)の花が、黄昏に近い陽を浴びて咲いているのが目をひいた。

宿屋住いは嫌だから、早く家を見つけたい、と近衛がいうと、滝は、自分は鴨の糺の森近くに住んでいるが、すぐ近くに、彼の知人が四、五日前に引越して空いている家があるといった。

「もっとも三室に玄関くらいだから、近衛君には小さすぎるかな」

「いくら小さくても、環境さえよければいいですよ」

「環境は申し分ないんだが……」

「じゃ、すみませんが、さっそく家主に頼んどいてくれませんか、明日でも、僕お伺いしますから」

熊野神社の前で、二人は別れた。
 

翌日、滝の案内で、その空家を見た。それは糺の森の東側を流れる小川に沿って、田圃の中に建っていた。隠居所に建てたものらしく、長い築地塀をめぐらして、外から見ると、大きそうに見えるけれど、入って見れば、庭は広いが、家は小さい。

しかし、家から一歩外へ出ると、東山全体が一目にみえて、素晴らしい。それに大学や出町橋の終点(駅)に出るには、白川よりも便利だ。家賃は月十五円だという。

さっそく借りることにして、その旨原田の下宿に知らせると、義照少年が牛乳屋の父をつれてやってきて、東京から送ってきた荷物の運搬やら、家の掃除やら、台所用品の買い出しやらすべて手際よくやってくれた。そのうちに、口入屋へ頼んでおいた飯たきもやってきた。松田スエといって、五十歳前後の気さくな、感じのいい婆さんだった。

かくて新しい生活が始まった。

義照は、毎日早く起きて中学へ通ったが、帰ってくるとまめまめしく働いた。その頃この辺にはまだ電気がきていなかったので、明るいうちにランプの掃除をするのが、彼の第一の日課だった。そして暇があれば、文麿と角力(すもう)をとったり、賀茂(神社)の境内の白い砂の上でキャッチボールをしたりした。

朝起きると、鴨川の眺めは何ともいえぬ。紺絣の着物に、水色の帯を大きく腰にむすび、その下に前()れをして、友禅ちりめんの(たすき)をかけ、姉さんかぶりで、京の町へ急ぐ娘たちは、すぐきを売りに行くのであろう。

北白川、一乗寺、修学院から八瀬にかけて、たちこめた朝靄(あさもや)の裂け目に、色とりどりの紅葉が見える。

小原女や紅葉でたたく鹿の尻   其角

その鹿が、今にも自分の眼の前に、糺の森から飛び出して来そうな気がするのであった。

大学に籍をおいたが、別によい成績をとる必要もない、気に入った教授の講義にたまに顔を出すだけで、ふだんは家にいて、好きな本を読むという、かつて経験したことのない自由なのびのびとした生活を、彼は楽しんだ。

まもなく、鴨川堤の柳の葉も散りつくして、底冷えのする京の冬がやってきた。周囲の眺めも、いつしか荒涼たる景色に変わって行った。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな   蕪村

その頃、(スイスの)バーゼルに開かれた第二インターナショナルの特別会議では、戦争反対の宣言を可決した。日本では、二箇師団増設案が議会で否決されて、上原陸相は辞表を提出し、西園寺内閣は倒れた。「憲政擁護」の嵐をよそに、第三次桂内閣が成立した。

かくて、「明治」の名を冠した最後の年は暮れて行った。

 

第1章 叛逆の系譜

第3章 将門岩

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