第3章 将門岩

その頃、西田幾多郎は、京大の助教授から教授に進み、文学博士になった。

近衛が小泉嘉幸や上田操と打ち合わせて、初めて博士を訪ねた日は、朝からどんより曇って、みぞれでもきそうな空模様だった。博士の住居は、この辺によくある紅殻塗りの格子のついた純京都風の貸家で、家の中は薄暗かった。小泉は、西田家とは遠縁に当たるので、すでに家人と懇意だった。

取りつぎに出た夫人に来意をつげると、主人はまだ大学から帰らないが、もう帰らねばならぬ時刻だから、上がって待つようにすすめられた。

通された書斎兼応接間は、机と書物以外何の飾りもない六畳である。床の間には、粗末な表装をした李白の詩がかかっている。
 
桃花流水杳然去(とうかりゅうすいようぜんとしてさり) 別有天地非人間(べつにてんちのじんかんにあらざるあり)     寸心
  
(七言絶句「山中問答」の後段)

「寸心」というのは、博士の雅号だと小泉が教えてくれた。

まもなく博士が帰ってきたらしい足音が聞こえたので、かれらも玄関に出て迎えた。博士は和服にマントをきて、紐のない靴をはいていた。博士のうしろには、かれらより四、五年も年かさの温厚そうな青年が立っていた。

「天野君と一緒に帰る途中、本屋に立ち寄ったので、少しおそくなった」

と、博士は夫人にいった。その青年は天野貞祐といって、今年ここ(京都帝国大)の哲学科を出て大学院にいる人だと、博士はかれらに紹介した。

博士は、著作から想像して、気むずかしい、とりつく島のない人のように思えたが、会ってみると、うちとけた、ものわかりのいい人だった。痩せて、上背がなく、額は禿げ上り、菱形の顔をしている。眉毛がつき出て、その下の度のきつい眼鏡の底で、澄みきった沼のような深い静けさをたたえた眼が、暖かく輝いている。全体からうける印象は、学者というよりは、茶人か禅僧といった感じである。世事には全く無頓着のように見えて、話してみれば、何でもよく知っているばかりでなく、その本質や急所をちゃんとつかんでいる。話題は、哲学や思想上の問題から、文学、美術、政治、経済にまで及んだ。マルクスも、彼の思想体系からいうと、全然逆の立場に立つものだが、馬鹿にできないともいった。

「そこで……」と近衛はいった。「僕たち、政治や経済をやっている連中で、先生を中心に、哲学研究会のようなものを始めたいのですが、先生のご指導を願えないでしょうか」

「いいでしょう」と博士は即座に答えた。「しかし、ここのところ、忙しいので天野君に主としてやってもらったらいいでしょう。もちろん、わたしも時々はお仲間入りしますが。どうでしょう、天野君?」

「ご一緒に勉強しましょう」

と、天野は引きうけた。

まもなく、そろって博士のもとを辞した四人は、今後の研究方針を打ち合わせるために、近所のミルクホールに入った。土間の隅にストーヴがあって、それを囲んで数人の学生が、新聞や雑誌を読んでいた。傍の卓上には、官報の綴込みがおいてあった。

“官”を背景にした各種の試験が、学生の頭と生活の大部分を支配していた当時においては、その結果を発表する官報が、新聞以上に大切な必需品であった。たいていのミルクホールや、食堂(まだ喫茶店はなかった)には、「官報あり」というビラが、往来からも見えるところにかかっていて、それが客を引く大きな力をもっていたのである。

温かいミルクを啜りながら、近衛は心の中で、今別れてきた西田博士の印象を反芻し、河上肇と比較していた。

河上も西田も、宗教性の強い点で共通している。ただし、河上には基督教のゼスイット派(イエズス会)や清教徒に見るような戦闘的な排他性と非寛容性(イントレランス)が感じられるのに反し、西田には、東洋文化の底流となっている仏教的な諦観と寛容性(トレランス)がただよっている。近衛は、思想的には河上に共鳴すると共に、人間的には、西田の方により多く親しみを覚えるのであった。

四人で相談の結果、毎週一回、天野の下宿か近衛の家で、研究会をもつことにした。テキストには、さしあたり西田の「善の研究」を使うことにきめた。メンバーには、木戸、原田、織田、赤松その他学習院や一高時代の友人も加わって、一時は相当の人数になった。

近衛の家では、研究会の後で、食事を共にしながら、雑談のひと時を送るのが楽しみだった。音楽の好きな近衛は、その頃まだ珍しかった蓄音器を買いこんで、洋楽のレコードをかけた。そのうちに、哲学に関する原書の輪読を始めたが、ドイツ語のあまりできない近衛には、少々苦手だった。

三月に入って、そろそろ暖かくなってくると、天気のよい日には、この仲間でよく京都の近郊を散策した。嵯峨、御室から、清滝まで行って、名物の川魚料理を食っていると、日が暮れて、めいめいもらった提灯をぶらさげながら帰ってきたこともあった。途中でみなへたばったが近衛は平気だった。

 お彼岸に入ると、京の街は、にわかに活気づき、ざわめいた。東西本願寺や知恩院に詣る善男善女の群れが、全国から集いよって、街中にあふれた。

学生も、春の試験が終わると、郷里に帰るものは帰り、残っているものも、落ちついて机に向かってはおれぬとみえて、夜となく昼となく、街へ流れ出た。吉田界隈からくり出してくる角帽(京都帝大生)や白線帽(三高生)の群れは、三々五々、寺町から四条を経て、東山一帯に氾濫し、やがて卒業即失業の時代(戦後恐慌/第一次世界大戦後の一九二〇年に発生した不況)がくるのも知らずに、放歌高唱して、青春時代の自己陶酔をむさぼった。それは正しく善男善女の宗教への現実逃避をそのまま裏返しにしたものであった。

祗園や御所の桜がちらほらほころび始めると、京の街全体が、この狂乱に合流しているように見えた。

その頃、四条大通りの一角、昔ながらの(やぐら)をもって(そび)え立つ南座が、ちょうど今はねたとみえて、人間のかたまりがどっと吐き出された。その大部分は若い男女で、いずれも今見てきたドイツの公子と宿の娘の甘い恋物語が与えた感傷に、頬をほてらせていた。

その大きな人間のかたまりは、いくつかの小さな群れに分かれて、四方に散っていった。その群れの一つに近衛文麿がいた。

芝居は、文芸協会の演じた「思い出」(アルト・ハイデルベルク)であった。松井須磨子の扮した宿の乙女ケティ、土肥春曙の公子カール・ハインリヒ、東儀鉄笛のユトナー博士などの姿が、今もありありと瞼に残っている。

 ああすぎ去りし若人の

 栄えやいずくに消え果てし

 いと楽しくも自由なる

 黄金のときよ汝ははや

 とはに帰らず求むれど

 影さえ偲ぶすべもなし

  ああいかなればかくばかり

  ものみなすべて変わりてし!

須磨子の口から出たこのメロディが、その素人くささの故に、かえって甘さと、熱と迫力をもって、彼の胸にせまってくるのであった。他の学友とちがって、特別の条件のもとにおかれている近衛には、あまりにも強すぎる刺戟であった。

その時刻の四条通りは、まだ宵の口である。この学生たちの足は、申し合わせたように、その頃できたばかりの、白堊(はくあ)の殿堂「菊水」に吸いこまれて行った。当時、カフェーとかレストランとかいう言葉は耳新しく、ヨーロッパ的な“文化”を象徴していた。

小会合用に区ぎられた一室で、コーヒーとそれからこの店の名物になっている「菊饅頭」を注文した。待っている間に、織田の手にあった紙片を木戸がひったくった。それは、公子とケティが接吻するところが、巧みに、漫画風にスケッチされている。一同は、子供のようにはやし立てて、それを奪い合った。どこか茫洋(ぼうよう)としたところのある織田には、漫画の隠し芸があって、後に「正チャンの冒険」の作者として、子供たちの間に人気を博した。

注文した品が来ると、かれらの話題は、今見た芝居を中心に、つぎからつぎへと発展していった。

「いつだったかな、帝劇で、バンドマン一座のコミック・オペラをみんなで見たね」

「『チョコレート・ソールジャー』や『メリー・ウィドウ』をやった奴だろう」

「そうだ。あのとき僕たちは、三時頃から行って列をつくったね」

「一等は三円だが、三等は五十銭だったからな」

「七時開場と同時に、三階まで駆け上がる競争は凄かった」

「近衛君ときたら、あの長いコンパスで、いちどきに階段を三つずつ跳ぶんだから、とても(かな)わなんだよ」

「そ、それはそうと近衛君……」と石渡は(ども)りながらいった。「わ、われらの『リジア姫』の一件は、そ、その後どうなってるんだい?」

今まで友人たちの話をうわの空できいていた近衛は、自分の名を呼ばれて、ハッとわれにかえったが、何を問われたのかわからなかった。

「その『リジア』って何だい?」

と、学習院から直接京都へきた学友の一人がききだした。

近衛の顔色を見て、「しまった!」と思った石渡は、

「い、いや、何でもないよ」

と、ごまかした。

「い、いしわた、けしからんぞ!」

と、加太が石渡の吃りを真似ていった。しかし、石渡は、答える代わりに、腰をあげて帰り仕度を始めた。それにひきずられて一同外に出た。

当時、センキウィッチの「クオ・ヴァディス」(何処へ)は、かれらの間で熱読されたものの一つで、罪悪と権力の都におけるペテロやポーロの愛と献身に、若き胸を躍らせたものだ。その中に出てくる純情可憐の乙女になぞらえて、毛利千代子のことを、一高時代から近衛の周囲にいたものは「われらのリジア姫」と呼んでいたのである。(ヘンルィク・シェンキェーヴィチ『クォ・ワディス』)

「菊水」を出たかれらは、それぞれの胸にあるいは過ぎし日の思い出を追い、あるいは未来の空想を描きつつ、ひとしくその甘さに酔いしれながら、四条通りを丸山公園の方に流して行った。

桜には、まだ早すぎたが、公園から知恩院にかけて、所々に立っているガス灯の光にも、すでに春らしいものが感じられた。やわらかい暖かさが、足もとから這い上がってくるようであった。

「おい木戸」と、織田はいった。「どこかこの辺から、桂小五郎(木戸孝允)が(こも)をかむって現われて来そうじゃないか」

「ところで、織田君、いつからか君に知らせたいと思っていたのだが、さる和尚から僕がきいたところではね……」と、木戸はいった。「君の先祖の信長が光秀にやられる晩に、京都の女を幾人も本能寺へ引っぱりこんでいたそうだ。だから、仏罰だと和尚はいっていたよ」

一同は、どっと笑った。

突然、誰かが、蛮声をはりあげて、

 妻を(めと)らば才()けて

 眉目(みめ)美しく情あり

 友を撰ばば書を読みて

 六分の俠気四分の熱

  ……………………

と歌い出すと、一同はそれに和した。(与謝野鉄幹の詩「人を恋うる歌」曲は三高寮歌「行春哀歌」に同じ)

ただ近衛だけは、黙々としていた。そして心の中で、別な歌を()んでいた。

 ()にしは古き(から)なるぞ

 実はなお我のものなれば

   その実をしかと放すまじ!

   その実をしかと放すまじ!

若き公子ハインリヒのつぎの言葉を――あの幕切れの最後の言葉を、思いかえしているうちに、それが声になって出そうになったのを、近衛は辛うじて(おさ)えつけた。

「私の好きなのは君だけだ、ケティ、あらゆる人間の中で、君一人だ!」

情熱に燃えたケティの、いや須磨子の唇が、闇の中から彼の目の前にせまってくるような気がした。彼はそれを払いのけながら、心の中で叫んだ。

「僕の千代子は、もっと美しい、もっと(きよ)らかな乙女だ!」

その晩近衛は、まんじりともしなかった。そして、夜が明けるのも待たずに、大急ぎで仕度して、東京へ立った。

毛利家との交渉は、予想外に好転した。文麿の純真な熱情に、高範子爵が動かされたのである。そうなれば、近衛家やその周囲の反対を圧える自信は十分あった。

そこで彼は、京都に戻って、彼女を迎えるための準備にとりかかった。下鴨の家は狭すぎるので、吉田山の中腹、宗忠神社の傍に恰好の借家を見つけた。

朝起きて、雨戸をくると、すぐ眼の前に如意ヶ岳が聳え、黒谷、真如堂と、鹿ヶ谷一帯の美しい眺めが居ながらにして見られる。おそくともあの山に、「大」の字の灯がともる頃までには、彼女をここへ迎えなければならない。それを見て彼女は、何といって喜ぶであろう。

その後彼は、幾度か、京都と東京の間を往復した。そしてついに、彼女を獲得した!

式は、仮祝言の形で、ごく少数の人々を招いて行われたが、そんなことはどうでもよかった。

梅雨時がすぎて、夏休みが近づいてくると、京都の学生街は、目に見えて淋しくなる。試験がすめば、さっさと郷里に帰るか、特別に暑いここの夏を避けるものが多いからである。

しかし、近衛にとっては、彼女のことで散々彼を苦しめた東京は、故郷というよりは“敵国”に近い。その敵に打ち克つことのできたこの夏は、京都で過ごそうと決心した。それに、今こそみっしりと勉強もしたかった。そのために比叡山を選んだのである。

よく晴れた日の午後、この若い公達(きんだち)夫婦は、白川から修学院村を出て、高野川(たかのがわ)に沿い、大原街道を上っていった。十八歳の千代子は、新妻というよりは、まだ女学生のように初々しく、(はた)の目には妹にしか見えなかったであろう。

途中で行きかう大原乙女たちも、見なれぬ彼女の姿と美しさに、いずれも後ふりかえり、囁きかわした。

暑い盛りなので、人通りは少なく、道端の水車がゴトン、ゴトンと眠そうな音をたてて回っている。樹蔭の川で、野菜を洗っている農婦の背中では、子供がスヤスヤと眠っている。

高野川は、所々()かれて、小さな滝となり、きれいな水が、氷屋のガラスのすだれのように落ちている。

緑一色で塗りつぶされた山肌の一角に、切り倒して皮をはいだ材木が、絨毯の上にマッチの軸をばらまいたように見える。そしてその辺りから、樵夫(きこり)のたく煙が白く立ちのぼっている。

鞍馬の方へ道がわかれる角のところに、腹を断ちわって臓物をとり出した後のように空洞(うつろ)になった椋の大木があって、その下に、京から肥料を運んできた牛車が停まっている。車の主は、その傍の樹蔭で、蠅がうるさいのか、顔に手拭をのせて、寝込んでいる。

八瀬に近づくにつれて、川もだんだん細くなり、道幅も狭くなる。道端の屏風のような岩からは汗のように水が滲み出ている。その岩の道に面した部分を彫りぬいて、その中に小さな地蔵さまが祀られ、それに野生の花が供えてある。

すべて、都会育ちの千代子には、珍らしいものであった。

京都から比叡山に登るには、八瀬口は坂道が急なので、たいてい白川口を選ぶ。しかし、白川口は前に登ったことがあるし、この夏を過ごすために借りた釈迦堂に行くには、八瀬口の方が近いので、こちらを選んだのである。

登り口に休み茶屋があった。床几(しょうぎ)に赤い毛氈(もうせん)が敷いてあって、水に冷ましたまくわ瓜を売っていた。

そこで、二人は一休みした。まくわ瓜を求めて、輪切りにして食べた。とてもうまかった。千代子は「八瀬童子」のことをきいた。すると、茶屋の婆さんは、得意になって、延元元年足利尊氏が京都に攻めこんできたとき、後醍醐天皇が神器(じんぎ)を奉じて、この村まで逃げて来られた。そこで村の若者たちは、天皇を(かご)にのせて、間道づたいに延暦寺までお送り申した。そのときの急な坂を登るのに、ちっとも駕が揺れなかったというので、天皇はたいへんお喜びになり、それから明治になるまで五百年間、この村は年貢御免(ねんぐごめん)になり、明治天皇さまが東京へお移りになったときも、この村から出てお車を曳いたのだと、何度も話してすっかり(そら)んじていると見えて、淀みなく語って聞かせた。

茶屋を出て、山にかかると、なるほどひどい坂道である。道の中程が雨に洗われて尖った岩が露出し、道というよりは、水のない川底である。しかも所々滝のような急斜面があり、それを()じ登るには、上から誰かに手を引いてもらうか、傍らの雑木の枝につかまるほかはない。

里数にすればいくらもないが、登りきるのに何時間もかかって、非常に苦しかった。しかしそれは二人にとって、楽しい苦しみであった。下から助けを求める手を差しのべる彼女の顔は赤く健康に輝いて、かつてない美しさであった。彼女の可愛いい汗ばんだ手の感触は、彼の精神や肉体の中枢をしびれさせた。

やっと尾根に出た。二人は一休みして、汗を拭いた。

「なるほど、この坂を歩かせられたら、後醍醐天皇も参ったろう」彼は今登ってきた道を見下ろしながらいった。「しかし、そうだからといって、村中の年貢を五百年も免除するなんてのはおかしい。これは天下の政治を私するものだ。どうも、後醍醐天皇という男は、大変な野心家のようだったが、やることはへまばかりだ」

千代子は驚いて、誰か聞いているものはないかと(あた)りを見回した。だが、彼女は別にさからわなかった。

釈迦堂についた頃には、杉の大木に(おお)われた山道は、すっかり黄昏(たそが)れて、堂守のためにきり開かれた一郭だけに、明るさがただよっていた。

かれらが借りたのは、特別の来客用に増築した八畳と六畳で、すでに夜具も炊事具も届いていた。広々とした庫裡(くり)には、大きな(へっつい)がいくつもあって、流しには、(かけい)の水がチロチロ落ちている。そこで義照がまめまめしく晩餐の仕度をしている。

義照は、文麿たちを見ると、そばへとんできて囁いた。

「御飯はもうできてるんやけど、和尚さんが僕のもってきた肉を見つけて、スキ焼は困るちゅうんですよ」

晩餐を簡単に早くすませて、文麿は千代子を誘って外に出た。境内の杉苔は、厚い絨毯のように深々として、足の裏に快い感触を伝えてくれる。

大きな赤い月が出た。松の老木の間を()しこんでくる光は、辺りに荘厳の気を(みなぎ)らせて、太古の生活を思わせる。

若い二人の胸は、子供のようにふくらんだ。疲れてはいるが、これがかえって昂奮を高め、このまま床につくのは、もったいないような気がする。

二人は境内を出て、今日登ってきたのとは別な一筋道を、手をとって進んだ。幾抱えもある巨木の裾の方には、袴のようにやどり木や苔がからまっている。切株が腰掛けのように残っているのもある。さすがに冷気が肌にしみる。

坂が急になった。おまけに地面が粘土質でじめじめしている。(千代子は)しばしばすべりかかって悲鳴をあげ、その度に彼のからだにしかとしがみついた。

ついに頂上に出た。一面(すすき)の原で、見晴らしがいい。四明ヶ岳(しめがたけ)である。早くも露が降りている。

中央に大きな岩が頭を出しているのは、有名な将門(まさかど)岩で、その隣りは純友(すみとも)岩である。

二人は将門岩の上に立った。月の光は、舞台照明を浴びているような錯覚を起こさせる明るさである。

右手に、蛍をまきちらしたように、無数の灯が見えるのは、京都の町々である。左手、すぐ下の方に、琵琶湖の水面が、月光をうけて、古代鏡のように鈍く光っている。

昔、野心に燃えた平将門は、この岩の上に立って、無意味な“血”で固められた宮廷に対する叛逆の決意を固め、東国に帰って周囲の豪族を攻め亡ぼし、自ら「新帝(新皇(しんのう))」と称して、文武百官を任じた。近衛も今、因習に打ち克って、ついに彼女を獲得した。現にここで、彼女は自分の腕の中にいる!

確かに自分も叛逆者にちがいない。しかし自分は、新しい権力を築くために、古い権力に叛逆しているのではない。権力そのものをなくするために闘っているのだ!

 その実をしかと放すまじ!

 その実をしかと放すまじ!

須磨子の歌ったあの重句(リフレイン)が、ふたたび彼の心に甦ってきたように、強く千代子を抱きしめた。

涙に濡れた彼女の眼はかつて見られなかった新しい光をおびている。そして彼女の唇も、この世に生をえた嬰児が初めて母の乳房を求める如く、彼の唇を求めてきた。

釈迦堂に帰ると、義照は、待ちくたびれたのか、座布団の上で、ぐっすり寝込んでいた。

 

 

第2章 青春賛歌

第4章 後継者

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