書誌情報
昭和10年 3月5日発行(1935) |
著作者 |
大宅壮一 |
発行者 |
中村徳二郎
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印刷者 |
溝口栄
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発行所 |
白揚社
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16cm×22.3cm、本文293頁 |
目次
序
第一篇 情勢
現代ヂャーナリズム鳥瞰圖
一 最近ヂャーナリズムの動向
二 新聞ヂャーナリズム
三 雜誌ヂャーナリズム
四 出版ヂャーナリズム
日本ヂャーナリズムの産業革命と合理化
一 金錢主義の時代
二 日本文壇の産業革命
三 文壇合理化の産物
四 「新社會派」の生産性
五 經濟的に見た日本の文學
ヂャーナリズムと匿名評論
一 論壇潜水艇時代來る!
二 匿名批評家の正體
三 匿名氣質の分析
四 匿名の鑑別法
ヂャーナリズムと「非常時」
一 實用性と局部性
二 左翼は「歴史」に
三 文壇の非「非常時」性
四 特殊性の強調
ヂャーナリズムと新人
一 人間の封切
二 デビューと封切
ヂャーナリズムとポーズ
一 人間性の四捨五入
二 蜂須賀小六の論理
三 ヂャーナリズム美容術
四 文學的變死者
ヂャーナリズムと女流作家
一 レヴュー・ガールと女流作家
二 奧樣と姐御
三 装飾的作家
四 プロレタリア派
五 眞に新しい女流作家
第二篇 技術
編輯の技術
一 概説
二 編輯の對象
三 編輯プラン
四 問題と筆者
五 指定・校正・割付
六 編輯とモンタージュ
人物論の構成
一 人物論時代
二 非常時と人物論
三 人物論と人間論
四 個人論と集團論
五 脚で書く人物論
六 對象との關係
七 批評者の態度
現代惡文批判
一 惡文の定義
二 惡文の種類
三 社會科學者の惡文
四 哲學者の惡文
五 プロレタリア派の惡文
六 小説家の惡文
七 内容的惡文
第三篇 文學
ブルジョアジーと文藝
一 序説
二 ブルジョア文學の發生
三 ブルジョア藝術としての小説
文學の職業性と超職業性
一 職業としての文學
二 純人藝の超職業性
三 作家生活の矛盾
『純文學』と『大衆文學』の境界
一 人間本位の境界線
二 製作動機に基づく分類
三 果たしていづれが高級か
四 漸次歩み寄りの傾向
行動主義と能動的精神
一 指導精神の探究
二 知識階級の「復活」
三 消極的な積極性
四 無力な審判官
文士行状論
一 浪費の生産性
二 花柳界とカフエー
三 文士と賭博
附録 曝露
ニセ・マルクス四兄弟
一 プロレタリア大陸への密航者
二 社會主義ギルドとニセ・マルクス商會
三 デマゴーグ・ルンペンの一群
四 ニセ・マルクス兄弟商會の繁榮
五 マルクス五十周年と本願寺
六 市場獲得のための「共同戰線黨」
七 長兄大森義太郎の辣腕
八 ボロを出した清盛辯證法
九 君子危きに近づかぬ向坂逸郎
一〇 これでも立派なマルクス主義者!
十一 「學徒」佐々弘雄の珍哲學
十二 學者くづれのルンペン石濱知行
十三 マルクス、「マルクス主義者」に非ず
社會ファシズムの大本山と化した大原社會問題研究所
高野岩三郎・森戸辰男・節田民藏等大原宗門一族の假面を剥ぐ
一 ゆらぐ殿堂、大原社會問題研究所
二 資本家のパトロン氣質
三 腰巾着「監事」柿原某
四 睨みと腕の所長高野博士
五 「無産階級教育」屋・森戸辰男
六 「婦人と娯樂」研究のトリオ
七 書齋派マルキシスト・グループの解體
八 死藏書の墓守・内藤赳夫
九 大原行進曲「殿堂は搖ぐ」
日本を知らぬ日本主義者 「非常時日本」の道化思想家權藤成郷の假面を剥ぐ
一 靈驗あらたかな「家傳秘藥」
二 銃聲と共に現れ出た道化役
三 郷土を知らぬ「成郷學説」
四 國史を知らぬ國史學者
五 制度學者制度を知らず
六 倉は滿ちて農民饑ゆ
七 有田ドラッグ式の誇大形容詞
八 民族問題では傳説そのまゝ
九 「地方自治」實は土豪專制
一〇 滑稽な時代錯誤の標本
遊蕩「人格」四兄弟 阿部次郎、安部能成、小宮豐隆、和辻哲郎の假面を剥ぐ
一 涎で書くへへののもへじ哲學
二 白い波頭に浮び上つた官製「人格主義」者
三 ニセ・人格主義學商の系圖
四 「光栄ある」人格主義のスタート
五 長兄阿部次郎の自己紹介
六 セカンド安部の風貌「人格」
七 和辻のスタートは七里ケ濱
八 人格主義者理論鬪争の二十五年
九 三太郎・遊蕩・日記
一〇 官製「人格主義」原理の樹立
十一 反動「文化の中心としての教養」論
藤村・有三・義三郎等の假面を剥ぐ
一 文壇「ルーブル詐欺」
二 一聯の「模造聖人」たち
三 この「努力」「精進」「嚴格」!
四 素人に「轉向」した藤村
五 徹頭徹尾節子さんに冷酷
六 「苦心」をしやぶらせる有三
七 泣かされるだけ有難がる編輯者
八 未亡人の寵に浴して「自重」
九 船の客ひくラシャメン義三郎
一〇 癌の手術は眞綿で出來ぬ